ところで、私はセロ弾きのゴーシュの英語表記をローマ字で GOSHU としている。おそらく宮沢賢治はフランス語の辞書も持っていたろうから、フランス語のgauche(だったかな?)からとったに違いない。フランス語のゴーシュと言う意味は、「へた、まがい物、インチキ」などという意味と「左側、心臓のある側」などと言う意味がある。都合良く解釈すれば、下手だが心のあるという意味から、田舎のへたっぴセロ弾きの名前として命名したのだろう。
当初、私はペンションの付属の音楽ホールを「ゴーシュホール」として、英語表記はフランス語のゴーシュを使おうと思っていた。しかし、フランス語に堪能なチェリストの倉田澄子さんや他の方に相談したところ、それはやめた方がよいと言われた。意味としては、下手とか左とかで良いが、フランス人が見たり聞いたりしたら、大変悪い印象を持つ。そういう語感の言葉だと言う。賢治はもちろんそんなことは知らなくて辞書を見て命名したのだろうし、所詮、カタカナの日本語の人の名前なのだから、その音だけとってローマ字表記することにした。
それにしても宮沢賢治と言う人は名前をつけるのが大変上手い。ボキャブラリーが豊富であることもすごいものだが、見たものの本質をぱっとつかんでしまう能力に長けていたようだ。賢治は、上京してオルガンを習い、こっそりチェロも3日間レッスンを受けた。その程度ではほとんど弾けなかっただろうが、「詩作のためだ」と言ってこっそりチェロも習ったのは、よほどやりたかったのだろう。「セロ弾きのゴーシュ」と言う童話は、賢治が死の床にあってもなお推敲を重ねた、最後の傑作である。きっと賢治の憧れが凝縮しているに違いない。
いつか、私も賢治のセロ弾きのゴーシュのように、田舎の畑の中の小さな家に住んで、町の合奏団に練習にいき、夜はとぼとぼ月明かりの田舎の道をチェロを担いで帰ってくるような生活がしたいなぁ・・・それができなくても、そういう気持ちで暮らせたらいいなぁ・・・ ゴーシュの小屋の訪問者、猫や、カッコウや子狸、野ネズミ、その他沢山の動物は勝手にやってきて、勝手に病気を治したりして帰って行く。このところが実に良い。何かをしてやった、してもらった、ということもなくただの月明かりや風のように自然現象の一部であるかのようだ。こういうさわやかな?関係というのはどんどん失われているものだ。個人の資格や権利や様々な差別を超えて、人間も動物もなくただ大自然の永遠の命がある ということだろうか。
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