ある時から政治家が使い始めたあいまい言葉、「・・のかな」が次第に普及して、町のインタービューにでも通行人が日常的な事柄について意見を求められても、使うようになってきた。
世も末である。この言葉は、若い女の子が、「私ってぇ○○じゃないですかぁ」というのと同じだ。
何故、この言葉がおかしいかと言うと、自分のこと、自分の感情、自分の意見を聞かれているのに、疑問形で肯定文を構成しようとするから、ということだろ
うか。文法的にとても特殊な形だし、砕けた日常用語(用法)を公の場、会話の際に用いる事で、あいまいかつ平易なようでいてある種傲慢な印象を与えている。(だから、政治
家が使いたがったのだろう)
いつまでたってもこれでは日本は世界に通用しないだろう。自分の意見を責任を持って発することは自立の第一歩である。あいまいなことを言ってあとはお前が考えてみろという姿勢(「いかがなものかな」「そう言う考えもあっていいのかな」、など)で、ありがたがってそのお言葉を頂いて考えてみますなんて人間はそういない。あほとちゃうか、である。
考える、というのは論理的に考えるということだ。私はこう思うという「意見」は、何らかの客観的事実に基づいて論理的に構成された物でなくてはいけない。そうでないのは自分の感情や感想を思い巡らせたものでしかない。それはそれでも良いけれど、さらに自分の意見に自分で疑問符をつけては議論の場で主張できる性質のものではない。様々な会議があるが殆どが親睦と感想の言い合いで会議の進展はなかなか図られない。
物事、不確定なこと、あいまいなことはあるのが当たり前だが、どこまでが分からないのか、どの部分に問題があるのか、などと言うことは整理した上で、それをふまえてその点についてはよく分からないと言うなら分かる。だが、自分の意見(気持ち)がハッキリしないなどと言うことは、表明する意味のないことだ。それを1つの意見のように言うことが図々しいし間違っている。
というか、はっきり言っては角が立つとかで、あいまいにし、何となく皆仲良く和合する余地を残そうというのだろうが、いかにも日本的で、そんなこと言っても最後は決しなければならないが、その決断は誰ともなく天から降ってくるか、裏取引か裏談合によって見えない所で決まっているということだろう。議論の結論が議論の場の外から与えられるのでは、議論の意味がない。こんな習慣が身に付いているのか、普段から何でもあいまいにすることが美徳となっているようだ。自分の意見を責任を持って言える独立した個人を前提とした民主主義なんか日本で育たない理屈だ。
何だか偉そうに分けの分からないことを言っているように思われるかも知れないが、よく分けの分からないことを理解しようと思うとこうなってしまうだけ。
「・・・じゃないですかぁ」とか「・・・のかな」とか普通これまで使わなかった用語がでてくると、おかしいじゃないかと思うが、ズルズルと皆がなんとなく「いいかんじ」で使い始める。段々世界が痴呆化してくる・・前にも書いたが、災害の際、役場の担当者が「これ以上雨が降らなければ良いのかなと思います」などと語っていたのが典型。
そして、みんなでなんとなく「のかな」「のかな」と言ってるうちになんとなくパーフォーマンスの上手な政治家が絶叫するとそっちになびく・・勘弁して下さいよ・・・と言いたいだけ。
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