最近葬式に行くことが増えてきた。まだ友人レベルではほとんどないが、親戚のおじさん、恩師など立てつづけに・・
ところで、よく、重病になって死と向き合うことで、人が変わったとか、ろくでもない性格の人が子供が急死したことで人が変わったように優しくなったとか、そう言うことを言う人がいるが、私は全然そう言うことを信じない。
大きな事件や出来事、死に直面すること・・それで人が変わるなどと言っているのはせいぜい2、3年が関の山で、元の木阿弥になるだろうと思う。大きな事件にぶつかればびっくりしたり、大変だと思うのも当たり前、ついでに反射的に何か思いついたりもするだろうが、それは電信柱にぶつかって痛いから涙が出た、と言うことと変わらない。悟ったとか思っても、それがずっと続くと思うのは「悟りのひもの」だと内山興正禅師は書いている。
ある出来事や大事件から突然人が変わったり、性格や考え方が変わるなどと言うことはないと思う。と言うより、それを大層なことのように言うことが不愉快だ(^_^) 問題は人間の内側である。「あはれ」を知ることと日常生活の苦労とは関係ない。何かを考えたり吟味するのは地道なまじめなことで条件反射ではない。
苦労が人を作ると言うことがある。しかし、苦労して良い人柄になるのか、いよいよ悪くなるのかどちらか分からない。戦争によって人が死に直面してもそれがどの様な深い体験になるかは分からない。敗戦後の日本を見れば、前より悪い国になったのではないだろうか。
それはともかく、大きな出来事にぶつかることが何か特別に意味のあることではなく、むしろ日常の沢山の小さな事の中に読み取るべきものがたくさんある筈だ。テレビ漬けで何も考えず感覚麻痺でしびれた生活をやめればそれだけで見えてくるものがあると思う。化学調味料なり人工的な刺激物を取ることをやめれば、直に舌はそのものの本来の味わいを感じられるようになるだろう。何があるかは分からない、何が真実かは分からないが、それを知ることを妨げているものがなんであるかは少しづつ分かっていく。目から鱗、と言う言葉があるが、真実に近づくと言うことは、少しづつまともになること、どこかに真実を探すのではなく、見えるように自分をまともにしていくこと。
・・・川原先生が亡くなって、昔の本など読み返したりしていて、学生時代に戻ったような感じでつらつらと脈絡なく書いてしまいました。お口直しに・・・
ニーチェの「ツァラトゥーストラ、かく語りき」の中に、特に好きな言葉がある。
「私は愛する、傷を負ったときもなお魂の深さを失わない者を、そしてちいさな体験によっても滅びることのできる者を。」
毎日見ていますが、今回はとくに勉強になりましたので、ひと言コメントさせていただきました。
いつも、ありがとうございます。楽しみにしています。
いつか、おじゃまさせていただきたいと思っています。
投稿情報: ブーゲンビリア | 2007-01-30 18:26