先生からお借りしたA3の楽譜をコピーして、半分に切り、汚れや歪みを修整して、再びA3コピーを作る。それから、元譜に書き加えられたトルトゥリエの指示だけのこしていらなくなった物をイレーサーで丁寧に消す。(これが写真の右側)。完成したら(つまりこれが手書きのトルトゥリエ校訂版)更にこのコピーを作る。そこに今度は自分のメモなどを書き加える。
他人の作った物は、やはり指の長さとか力とか違うので、そのままではやはり無理な場合もあるので、自分で弾きやすいように書き直さなくてはいけない。ところが、無理だと思って書き直して練習しているうちに上手になってきて、再び、元に戻るという事がしばしばあり、それが音楽的要求による物なのか、指の物理的特性に合わせた物なのか・・などなど考える事が多い。
ところで、トルトゥリエは、自分の使った楽譜を生徒が写す事は何も問題なく許していた。ただし、自宅の大きな机の上で全て手で写す場合のみで、写真だのコピー機だのを使用する事は許さなかったそうだ。それと演奏家なら誰でも、毎回演奏の度に研究して新しいボーイングなどに変えているわけだから、印刷物になってずっとそれが残る事は、演奏のCDも含め、本当は意に反した事のようだ。
画家にとっても、ある作品の完成という事はほとんどなく、出来たと思ってもしばらくすると気に入らなくなって捨ててしまったり、塗りつぶしたり、何も残らない。だから、適当に画商がアトリエから持ち出したりする、こともあるらしい(矢内原伊作「ジャコメッティとともに」)。
超一流の芸術家にとって、完成したと言って喜んで金庫にしまっておくような芸術活動はないのだろう。いつも新しく生まれ変わる、それこそが芸術の本質かも。音楽の場合、作曲家が作品を完成させた時点では、実はまだ半分。残りを演奏家が無限に変化させて作り上げる。だから決定版なんて物がないからいつまでも生き生きと弾き継がれるのだろう。
レッスンだって同じ事で、その生徒の段階に合わせてその時その場での指導をしているわけだから、ある時A先生がこういった、という事を他の先生と比べたり、違う人と比べたり・・そういう事をするのは失礼でもあろう。弓の持ち方はこうすべきだ、などという事1つとっても、その時その場で違っていておかしくない。
それはともかく、ちゃんと練習用の楽譜が出来上がると、気分も改まってやる気になる。
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