渋谷区立神宮前小学校昭和36年卒 同窓会の準備中との葉書が来ました。4クラス213名の約半数が消息が分かっているとのこと。なかなかすごい!
バブルの時代に、原宿界隈の土地は地上げによって相当住環境はめちゃくちゃになり、又、商売も出来なくなったり、引っ越す人が増え、クラス会をやるにも昔は1軒づつ歩いて訪問して相談していたのが出来なくなった。小学校卒業以来クラス会の幹事を一応ずっとやっている(もう1人はピアノの彼女)。この数年やっていなかったし名簿も1/3位の捕捉率。
クラス会の中では、小学校のが一番面白い。地域から通っているだけでなんの選抜も行われていないから、実にごちゃごちゃ、1クラス53人もいて「すし詰め教育」と言われたものだ。先生は戦時中忠君愛国でやってきた方たちの筈だから、戦後数年ではまだ民主主義でどうすると言うことが分かっていなかったはず。
なにしろ校歌は「明治のみかどおわします 鎮まりませる大宮の 森の緑の御恵みを したたり受けし我らあり」で、最初は意味が全然分からなかった。
民主主義がなんだか分からなくても沢山の子供たちがいてとうてい収拾が付かない理屈だから、自然に子供同士でごちゃごちゃやっていくことになり、自然にうまい具合になっている部分も多かった。子供たちは路地で遊んでいて、かなりの年齢幅の子供たちが一緒に遊んでいた(当時の原宿は川もあり、原っぱが至る所に広がっていた。八丁堀から引っ越してきた時姉はこんな田舎はイヤだ、と言ったらしい(^_^))。これが今と違う点。今の教育の問題(いじめとかetc )とか言われている部分の多くは、与えられた(頭だけの)民主主義教育の成果かも。個人を大切にとばかりやっていると、そうではない社会の現実にぶつかっても対応できないらしい。
それはともかく、「3丁目の夕陽」の世界。子供たちの誕生日と言えば、銀座の「不二家」で食事をするのが比較的豊かな?家庭の年に1度の贅沢な外食の機会、これは、多分都内の同世代の子供たち共通の体験だろう。
華やかな?社交の場と言えば、誕生会だ。50歳をすぎると昔のことも喋れるようになるらしく、クラス会では誰ちゃんが好きだったとかどうしたとかそう言う話になる。マドンナの女の子の誕生会に初めて呼ばれたYクンは靴を新調し普段着ないような新しい服を着たりして緊張して行ったらみんな普通の靴で恥ずかしかったとか想い出を語った。私なんかが下手になんだそんなこと・とか言おうものなら、昔のことなのに今のことのように真顔で怒られる(^^;) 生まれて初めての招待、それほど嬉しくて緊張していたのだろう。(^_^)
あの当時、自分の家の子も近所の子も、クラスの子もみんな一緒という感覚があった。「子供は国の宝」とか「子供は神様からの預かりもの」という言葉が自然だったのだろうか。塀なんかあってないようなものだったし、猫が出入りするように子供が色んな家を出入りしていた。その頃の家は、道路側には塀がちゃんとしてたが、隣家との間にはお互いの了解で木戸が作ってあり、味噌貸してとか醤油貸してとか裏から往来が出来るようにしてあった。当然子供たちもそこを行き来した。
草原で野球をしていて隣の家の板塀を割り、「すいませ〜ん」とみんなで行ったら、「こらっ」と怒られ塀をその辺の板でなおさせられた。代表して年長の子が斜めに板きれを釘で打ち付けた形だけの修理で(これはおかしい)と子供ながら思ったが、おじさんはヨシヨシとにこにこして、みんなにスイカを振る舞ってくれた。近頃地域の教育力とか言ってるけど、本当にわかってるのかな。人々が安心して暮らせるおおらかさ、それが取り戻せるのか・・。
民主主義も言葉だけ、教育も言葉だけ・・じゃないのかな
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