昨日アスベスト被害に関する国の責任を認めた地方裁判所の判決が出た。
昭和35年頃には既に国はアスベストの健康被害について認識していたのにその対策を怠った・・と言うことらしい。これまでの公害裁判をみると、きっと国は、その当時は十分認識していなかったとかなんとか反論するのではないだろうか。
「知らなかった」という言葉の意味を特殊に解釈するのが行政側で、因果関係について確たる科学的証拠を見いだしていない、と言う意味で使ったりする。だとしたら、不知、不作為の罪がある。知っていて放置したより罪が重い。高校を卒業するときある先生は、「君たちはこれからは大人になる、大人になると言うことは、知らなかったでは済まないと言うことだ」と諭した。犯罪でないとしてもそんな人並み外れて無能力な役人に税金を払う理由はない。公務員もクビにすべきだ。
それはともかく、昭和36年、私が中学1年の時、既に多くの人はアスベストが体に良くないと知っていた。当時、私のいた渋谷区立原宿中学校(私は第2期卒業生、今は廃校)は新築されたばかりだったが、ある日、廊下の天井がむき出しにされ、なにやら工事をしていた。体に悪いからそこを通るなと先生に言われた。それは天井裏にアスベストが使われていてそれを除去する工事をしていたらしい(教育委員会の許可なくそんな工事をするはずがない)。それを思い出したから、その当時アスベストが健康に良くないなんて知らなかったなんて国の責任者が言うとしたら許せない。
判決に対する国の対応は一応未定なので、これ以上は言わないことにしよう。どっちにしろ、分かりました、恐れ入りましたなんて言うはずがないだろうけど。
高度経済成長真っ盛りのこの頃、国は、国民の健康より企業の収益性や国家事業の推進を優先させていたと思う。しかし、考えてみれば、こういう保身的で利己的でそのためにはあらゆるものにフィルターを掛け自分に有利なものしか見ない体質(それが生物としての人間の本性だろう)は国だけでなく当事者でない(当事者であると認識できない想像力の)国民のうちにもあって、沖縄を実質的に差別している事にも見て取れる。普天間問題に対するマスコミや一般国民?の反応も非情と言っても良いほどだ。想像力のないところに人間性も民主主義もない。ジャーナリズムというのは、想像力の拡大に資するべきもので、先入見を与え一定方向に誘導するような報道は本旨にもとると言うべきではないだろうか。
「知らなかった」という言葉の意味を特殊に解釈するのが行政側で、因果関係について確たる科学的証拠を見いだしていない、と言う意味で使ったりする。だとしたら、不知、不作為の罪がある。知っていて放置したより罪が重い。高校を卒業するときある先生は、「君たちはこれからは大人になる、大人になると言うことは、知らなかったでは済まないと言うことだ」と諭した。犯罪でないとしてもそんな人並み外れて無能力な役人に税金を払う理由はない。公務員もクビにすべきだ。
それはともかく、昭和36年、私が中学1年の時、既に多くの人はアスベストが体に良くないと知っていた。当時、私のいた渋谷区立原宿中学校(私は第2期卒業生、今は廃校)は新築されたばかりだったが、ある日、廊下の天井がむき出しにされ、なにやら工事をしていた。体に悪いからそこを通るなと先生に言われた。それは天井裏にアスベストが使われていてそれを除去する工事をしていたらしい(教育委員会の許可なくそんな工事をするはずがない)。それを思い出したから、その当時アスベストが健康に良くないなんて知らなかったなんて国の責任者が言うとしたら許せない。
判決に対する国の対応は一応未定なので、これ以上は言わないことにしよう。どっちにしろ、分かりました、恐れ入りましたなんて言うはずがないだろうけど。
高度経済成長真っ盛りのこの頃、国は、国民の健康より企業の収益性や国家事業の推進を優先させていたと思う。しかし、考えてみれば、こういう保身的で利己的でそのためにはあらゆるものにフィルターを掛け自分に有利なものしか見ない体質(それが生物としての人間の本性だろう)は国だけでなく当事者でない(当事者であると認識できない想像力の)国民のうちにもあって、沖縄を実質的に差別している事にも見て取れる。普天間問題に対するマスコミや一般国民?の反応も非情と言っても良いほどだ。想像力のないところに人間性も民主主義もない。ジャーナリズムというのは、想像力の拡大に資するべきもので、先入見を与え一定方向に誘導するような報道は本旨にもとると言うべきではないだろうか。
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