近頃のマスコミとそれにすっかり洗脳されている多くの方々を見ていると、民主主義はまだまだ。(エラソーだ(^^;))
私が昔心理学で一番興味を持っていたのは、認知と言うこと。 何がどう見えるかは、どの様な意味を持って見えるかということであり、その意味づけは何によって影響を受けるか・・・とか言うことである。
特に対人認知、と言うのは心理学の大きなテーマだ。心理学の専門の話はとっくに忘れたけど、その後の経験でもはっきりしているのは、何が正しいかは、多くの人にとって、好きかどうかによっている、と言うこと。最初に嫌いだ、好ましくないと言う印象を持てばそれは増幅され正しくないと言う方向に決定されていく。人は殆ど客観的な情報や理性にもとずいて冷静に判断などしない。近頃「口コミ情報」が尊重されている風潮だが、好ましい人の言葉には従いやすい、信じやすいと言うことだ。好ましい、とは自分の近しい人、つまり専門家や偉い人より自分の仲間と感じられる人が好ましい。ある集団の意志決定をする時もこれが意味を持つ。あるグループに何かをさせるときも自分たちで決めたと言う形にすれば、その決めごとを守り実行する確率が高い。同じ事でも外から命令されたことには心からは従いにくいものだ。権威的意見も人を動かすが、より行動を促すのはこっちの近しい人だ。自分の親しい好きな友人が勧めたらそれを正しい情報として信じる。よく犯罪が起きたときにその身内に意見を求めると、うちの人に限ってそんなことをするはずがないという。自分に近しい人好きな人は正しいのだ。逆に嫌いな人は間違っているのだ。嫌いな人の言うことが正しいと認めるのは自分を否定するに等しい、と感じるだろう。
ではさらに人はどういう人が好きなのかというと、自分に良くしてくれる人、自分を愛してくれる人だ。この自己中心性は人間の本姓であり脳の基本的機能といえるだろう。そして、好きになったらその人の言うことは正しいものになる。というか正しいと言うのは自分にとって正しいという意味なのだし、一般的に正しくても自分に不利な内容では受け入れがたい。自分にとって正しいとは、それによって刹那的に自分が安定し、快を感じられるようなことである。だから「ごますり」はいつだって有効だ。そして、その場限りで「正しい」と言うことになればそれは個人の感情ではなく一応普遍性を持ち一人歩きするようになる。すり替えが行われるのだ。
けれど、人間はそういう閉じられた自己中心性によって本当に幸せになるだろうか。それが不思議なところ・・・。自由とか真実に生きたいと思うのも人たる由縁だろう。
理性のある人なら、そのことが自分にとって不利であり、嫌いであっても、しかしなお、それは正しいと認める精神の強さを持っている。この人は嫌いだけれど、でもその人の言っていることしていることのこの部分は正しい、と冷静に判断する。その逆もしかり。
世の中、黒白付けられないことが沢山ある、矛盾すること・曖昧なことも沢山ある、判断に迷うことも沢山ある、・・・当たり前である、そのことに耐えられず、白黒付けたがり即決したがる、そういうことは頭が良いと言うより精神の危うさ、弱さ、未熟さ・・を示している。イラク戦争開始の時のブッシュの支持率は80%を越えていた、それは正しいのか。不安を背景に一方的情報を流せば安心したいが為に多くの人がすきっとした結論を求める。こういう事はどこでも何度でも起きるし今の日本でも起きている。いつでもどこにでもあることだから、逆にいつでも克服するチャンスがある。
自らの快楽原則(快を善とし、安直な安心や手近な解決を求める)に従わずより大きな真実に生きると言うのはそれほど大それたことではなく日常のちょっとしたことにもあるのだと思う。
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
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