何故か思い浮かぶ、お釈迦様の喩え「三車火宅の比喩」(法華経譬喩品)
今回の被災と言うより原発事故を巡って様々な事が起きているが、節電とか倹約とか助け合いとか・・それも喉元過ぎれば熱さ忘れる,と言うことにならないか。大災害のまっただ中で,ともかくもその中から合理的で正しい行動が必要とされ,集団維持のための方策にみんなが協力し,知恵を出すというのは麗しいことだが,その先は・・再び火宅に飛び込んでいくだろうか・・。大切なのは,この経験の中から何かその人にとって本質的なものを発見することではないだろうか。社会全体がどうなっていこうと(再び元の木阿弥になるとしても)この経験から本質的に学びその成果として行動を変えていくことができれば、今回の事は失うものより大きな経験になる。だから、今様々な情報に右往左往しながらも、その時々の事象の裏側にあるものに気がつくようにしたい。
ヨーロッパはアメリカや最近の日本などに比べて、ある種の落ち着いた「賢さ」を感じる。それは、長い時間、様々な迫害や,戦争や,建設と崩壊を繰り返しながら少しづつ学んだものがあるからに違いない。日本も災害の多い国だからその点は経験も豊富だが,建物が丈夫になっていくだけでなく,根本的な暮らしぶりも成長しなくてはいけない気がする。それは、今、困難で不便?な生活を強いられて初めて気がついている人もいるだろうけど,たかが数時間停電するだけで大混乱するような社会を作ってしまっている。個人の手には負えないが,どこかで一人づつ、考えなくてはいけないことがあると思う。
3/30追記
とっさに思いついたことを書いたので,意味がはっきりしない文になったので補足を(^^;) 今の未曾有の事態はまさに燃えさかる家である。この中にいながらそのことの本質に気がつかずに良きにつけ悪しきにつけ右往左往するではなく(それも大切な事だが)社会全体、生活全体、個々の生き方考え方などをベースチェンジするようなことが必要ではないかと言う意味です。復興という時、又、前のようなものをそのまま目指すのでは進歩がないと言うことでもあります。今多少の耐久生活をしている現地以外の人達も同様。お釈迦様のような知恵が必要。
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