先生がおっしゃるには、この丸を連続で書く練習の時、大事なのは、手首をグニャグニャしないこと。これはボーイングと同じ。大体、筆の扱いは弓と同じ事が多いと思う。ポンと落として、腕全体で力を入れずに横にひき、静かにおさめる、こうした動きは、ボーイングに通じる。おそるおそるやると力が入ってよろよろぐちゃぐちゃになる。終点を目指して力を抜いてすーっとひく。この速度と圧力の加減は、何度も繰り返し覚えるしかない。慎重にゆっくりやれば良いというものではなく、勢いが肝心。スキーのターンだって、15度くらいの絶好の傾斜角で、パウダースノーの上で行えば、体重移動だけで。自然に曲がってしまう。自然にやるのが良いと言っても、自然に曲がれたり、良い音が出たり、きれいな線が書けるには、それなりの条件が必要。出来る限り「自然に」できるように環境を整えることは、大事な事だと思う。1度自然にできる方法を体が覚えたら、後は応用が利く。そういう研究を怠って「弘法は筆を選ばず、だ。どんなひどい状態でもできなくちゃいかん」というのは不合理、かつ怠慢だと思う。物事は何でも、わざと苦しんだり、バカなことで苦しんでいることに気がつかないとかではなく、なるべく簡単に楽にできるように工夫しなくちゃいけない。まじめな人は工夫をしないで努力で克服しようとするが、元来不真面目な私は昔から色々と工夫をするのが好き。王道を歩くことは好ましいが、裏道、横道、脇道、抜け道も(そこを通らないとしても)知らなくては話にならない。小さいもの、力のないもの、何も後ろ盾や恵まれた環境がないものは、常に頭を使って工夫しろ、と言うのが小さい頃からの亡き父の教えだ。
チェロの場合、力を抜いて自然にしっかり音を出すんだ、とかいっても、そのために、弓の毛はどの程度張るのか、松ヤニはどれをどの程度付けるのが良いか、弦は、楽器のコンディションは・・・そういうことに無頓着で良いのだろうか。まぁ、人の勝手だが・・
ところで、かなは、読むのが大変、殆ど読めない。でも、自分でかなを書くようにしていれば、読めるようになる、とのこと。理屈はともかく反復練習しかないというのも理屈だ。
悪筆なので、上手になりたいと思って
王羲之の集字聖経序で行書を三ヶ月やりました。
やっぱり上手くなりませんでした。
かなですか。素敵ですね。
投稿情報: えにお | 2012-02-09 06:19