今日は「チェロの日」のチェロオケの演奏があった。私は,長谷川陽子さんと一緒に4番パートを弾いた。本番前に、雑誌「サラサーテ」の取材でインタビューを受けた。 他に,4,5人取材されている。編集者は20年以上も付き合いのある方で、取材後一緒に食事して音楽の話で盛り上がった。ところで、取材の内容は,よくある質問で,いつからチェロを,どうして始めたか,等チェロ歴、チェロをやって良かったことと、チェロの日イベントについてとか・・・
どうしてチェロを始めたか・・カザルスを聴いた瞬間から、と質問紙に書いた。そう、何度もあちこちに書いているが、カザルスのドヴォルザークの協奏曲の出だしのチェロの音を聴いた瞬間に,雷に打たれたように、体の真ん中を貫いた衝撃、どうしてもチェロをやらなくちゃいけないと思った。そして、カザルスの弟子であった故佐藤良雄先生の門をたたいたのが始まりだ。その時の感動というか衝撃はずっとチェロの核心となっている。上手いとか何とか、演奏がどうしたとか,そんなことは小さな事だ。人間の核心、音楽の核心はただの一音に凝縮している。キリストも仏陀もそういう力を持った人だったのだろうと信じる。出会った人は,その姿を見たり声を聞いた一瞬ですべてを悟ったに違いない。貧しきものは幸いなり,求めよさらば与えられん・・だ。
それはともかく、チェロをやって良かったこと、勿論色々あって他の方も喋るだろう事と一緒だと思うが、細かく喋ろうと思ったが面倒になって、「やることがある、ってのが良い」などと訳の分からないことを言ってしまった。深く追求されなかったので,どう理解されたか分からない。だから、ここで、解説しよう。
普通、仕事をしている人は,定年退職後、どう時間を使うか悩むらしい。クラス会で話を聞いても、毎日、今日用事がある,今日行くところがある,ということが,夫婦円満の秘訣?でもあるらしい。やることがない、行くところがない,というのは大変まずい。だから、趣味があるのは良い,・・そういう意味もないではないが,私の場合は,チェロは、品の良いバランスのとれた趣味というものではなく、どっちかというと道楽という方が良い。
さて、やることがある、というのは、年齢に関係なく境遇に関係なく,やることがある,生きている限り目指すもの、やらなければならない事がある、という意味だ。カザルスを聴いたときから,チェロを弾く事は,私にとってそういう意味だ。真実とは手にとってこれが世界の真実だ等と言えるようなものではない。真実はどこにあるのか何なのかは分からない,けれど、真実はある,この世は生きるに値する、それがカザルスの一音に込められた強いメッセージだと思う。というか、そういう風に聴いたのだった。ハッキリとは分からないが、それでもひまわりがいつも太陽の方向に向かっているように,人間もいつも(たまにでも)真理の方に顔を向けていることが大切だ。チェロを弾くときは,何よりも意味のある良い音を出したいと思う。少しでも出来たら嬉しい。少しでも近づきたい・・。
又、余計なことだが,若い人は、畏敬の念を覚えるような体験をすべきだと思う。大人も含め今の人たちに欠けているものと私が思うのは、この畏敬の念、である。ちなみに、国立公園とはどういうものかというと、人が畏敬の念を覚えるような場所と定義される。深い森、美しい海、高い山などだ。人はそういうものに遭遇したときに素直に畏敬の念を覚えるものだし、そういう感性を失ってはならない。人が生きる上で重要なそういう感性を取り戻す場所として国立公園は定められている。
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