朝食後、食器を片付けようとホールに出てみると1人の女性がどういう風に片付けたら良いかと言うので、効率的なやり方があるので何もしないで下さい、と申し上げたら、横にいた先生が、そうそう、ヨーロッパでもアメリカでも、オケの譜面を片付けようとすると、それはするな、それは専門の人がやる仕事だというわけで、注意される、と。・・人の仕事をとっちゃいけない・・・。
人の仕事をとっちゃいけない。生活の糧、日々の喜び、共同体への貢献の機会、労働の喜びを奪ってはいけない。
マルクスが産業革命後の労働者の暮らしをみて看破したのが資本主義の根本的な問題・矛盾だったとしたら、今でも、その原点は変わらないのではないだろうかという気がしてくる。中間層というのが幻想だったかのように段々消えていき、やがてはごく一部の管理支配層に支配される(ひょっとして機械に?)時代が来るのかも・・。実際の共産主義国家というものは所詮人間のやることだから独裁国家となってろくな結果をもたらさなかったが、考え方として時代への警告としてまだまだ学ぶべき事があるのではないだろうか。アメリカのサンダースが唱えた社会民主主義が特に若者に支持を受けたのはもっともなことだろう。
そもそも産業革命でバラ色の未来が開けると思っていた当時、機械化によって、過酷な危険なあるいは不健康な労働から解放されて楽になり、自由な時間が増え、幸福な社会が到来するだろうと考えて不思議はない。しかし、一部には当てはまるが、利得の大部分はそれは持てるものの話。貧富の格差は確実に拡大し、その差は埋められない。近頃、正社員ではなく非正規職員がふえているという。企業(の利益)にとってはこんな都合の良いことはない。しかし、企業の社会的使命にとって、これはどんな意味があるのだろうか。
大体、老人ばかり増えて若者が伸びて行く余地などない日本に成長などあるはずが無い。(成長戦略などといっている言葉の意味は大企業が収益を増やす、富裕層がより豊かになる、ひょっとしたら一部平民も少しは恩恵にあずかれる・・という程度の意味だろう)だから、これからの社会、共存共栄と言うことにはならない。誰かが言っていた共存共貧 しみったれた考えかも知れないが、それでも豊かと感じられる社会が理想的。そういうことを社会で実現するのは、そんなに人間賢くもないし欲望を抑えられっこないから、無理だとは思うが、生活のあちこちで、そう考えて行動したり、そういうコミュニティを築くことは出来て、それはそれで、一部であっても幸せを実現することになるのではないだろうか。大震災直後、原発事故もあり世の中(少なくとも東日本)全体が暗い雰囲気に覆われていたあの時期、一方で、電気もなくて不便な?昔のような生活も悪くないなと思った人が沢山いたと思う。原発がなければ電気も足りず、江戸時代に戻るぞなどとここぞとばかり原発の重要性を唱える連中(それが真っ赤な嘘だったことは、この数年でハッキリした。あぁいうのは犯罪にならないのか)がいたが、原発のためにこんなに皆が苦しむのなら、不便になっても我慢してコミュニティを大切に仲良く暮らせる方が良い、と。
金科玉条のごとく、経済の成長成長、という連中がいるが、少し前までは成熟社会は低成長ということで、これからは精神的に豊かな社会を目指すべき等とも言われていた。社員の自己実現とか企業の地域貢献とかが叫ばれてた。(一昔前の経団連のホームページにそう書いてあったし、そういう趣旨の企業研修も盛んだった)。日本もやっとまともな国になるのかと思っていたが、あっけなくそれも終わった。信念のある事ではないから時の情勢に応じてころころ変わるのだろう。
産業革命以降の社会の変化とその結末についてそろそろ根本的な反省があっても良い気がするのだが・・
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