津久井の障害者施設での殺傷事件について1年経過したと言うことで、テレビでは1日中ずっと関連の放送が続いていた。大事件であったし、犯人が全く反省無く主張をしていると言うことが、特異だ。ニュースによれば、犯人の主張に共感する?投稿もネットで結構あるらしい。この残忍な事件について特に解説する必要も無いと思われるが、考えるべき大きなテーマがある。
今の世の中は,多くの点で息苦しくなって来ている。自然の摂理に背くような不自然な事が尊ばれ,吹聴されて,本当はおかしいと感じつつ流されていくと言うことが増えているようだ。色々な「社会問題」の殆どはそういうことだと感じる。
障害者は生きている価値はない,云々というのは、では、あなたには何か価値があるのか,生きている意味を知っているのかと問えば足りる話だ。人に、自分や他人の「生きている価値」を付与する権利も能力も無い。それに、「常識的に」社会的価値?のなくなった存在は沢山ある。費用も手間もかかる難病の人、介護なしでは生活できない人々、老人、失業者、・・作業効率の悪い人間、無能な人(AIロボットが増えれば無用?な人間はもっと増えるだろう)・・・
人が何か社会的業績だの,生産性だの,才能だの,富や名誉・・何か社会的に意味ありげな事を目標としたり,そのために努力するのはそれはそれで結構なこと,常識的なこと(そのように教育されてきたこと)だが、勲章をいくつもらおうと、年収何十億稼ごうと、それが本当にどんな意味があるのかは,誰も知らない。この世に生きて長くて100年ちょっと、人類の歴史や自然の流れの中でほんの一瞬のことで、1万年後に誰かが評価するのかと言ってもあり得ない。
どんなに威張っても、人間は愚かで無知であるが、少なくともそのことに気づいていれば,「無知の知」、少しは(いや比較的には無限に)賢いと言える。
ごくごく当たり前の事を当たり前に知ることが難しい。どんな人も自分の意思で生まれてきたわけでもないし、自分の意志や力で生きているわけでもないし、いつそれが終わるかも知らない。ただ、生かされているだけだ。
歳をとると共に,段々,普通の何でも無いと思われることにどんな意味があるのかを考える、考えさせられることが増えている。今回の事件を巡る事を考えるにつれ、もう1つ大切な事がある。それは、人は一人では生きていない、というか1人では価値も計れないということ、人は関係性の中でしか生きられないということだ。ある人に価値があるかどうかは、関係した人がいてこそだ。無価値だとして殺された人には親・兄弟がいて、一人ではない。社会に迷惑をかけるとか有用性とか言う、その「社会」とは、この関係性のことだ。
話を戻すが、差別意識というのは、その根本から払拭するのは難しい,私なんかいつでも差別意識の塊だ、というか自己中心的で自分の価値観を絶対視して自己保身に走るのは人間の脳の本性と言えるだろう。だが、それだけならそれは人間ではない。
近隣の保育園の子供の声がうるさいとか、自分のテレビの音は良いが,自分と関係ないバイオリンの音がうるさいとか、これらの多くは、周りと没交渉で一人の生活から抜けないから,想像力も働かず,自分の快・不快の感覚だけで反応している。こういう自分の好き嫌いだけの単純素朴な動物的反応が堂々と(正しい意味で教育されずに)世の中に充満していくと、人間の「社会」は崩れていく。
むかし、まだ、精神病院に勤務している頃、多くの感動的な場面に遭遇した。一生の殆どは病院の鍵のかかった閉鎖病棟の中で悶々と暮らすだけの、家族もなく,社会とも隔絶された患者さんが沢山いたが、ある私のチームのメンバーの女性が,退職するに当たって,担当していた患者さんに別れの挨拶に行ったときの話だ。その患者さんは50過ぎで、身の回りも汚らしく,体動が激しく、殆どしゃべりもせず,喋っても歯も殆ど無く、もごもごとしか聞き取れないような人だったが、別れの挨拶をした時、キチンを座って、(すらすら整然とではないが)これまで相手をしてくれた事への感謝と、これから一生この時間のことを思い出として生きていきたい,と言うようなことを語ったとのことだった。その話を聞いて,皆、あまりに意外で、驚きそして涙したものだ。
脈絡の乏しい事を長々と書き綴ったが、ともかく、避けたい課題でもあるが、深い問題だと思う。だからこそ、色々なことに気づかされたり,新しい発見をしたり,教えられたりするので、小さな事でもそれに関わることには価値がある。つたない私の文より、お口直しに、最後に、ニーチェが「超人」について語った一説の中から私の好きな言葉。
「わたしは愛する、傷ついてもなお魂の深さを失わないものを、そして、小さな体験によっても滅びることのできる者を。そういうものがよく橋を越えていくのだ。」(ツァラトゥーストラはこう語った)
ところで、世界中で様々な災害がおき,難民が発生する。その時真っ先に犠牲になるのは小さな子供や障害者である。だから、「NGO難民を助ける会」は、まず真っ先に障害者の救援に向かうようだ。ちょっと思いだしたので、ちょっとでもきっかけになるようにリンクしておきます。救援を求める人はあまりに沢山、世界中に広がっているので、どうして良いか分からないが,気が付いたとき,何かのきっかけがあったときだけで良いから,ほんの少し寄付をしたいと思っています。
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