だいぶ以前から、曖昧言葉が広がって日本中、年齢、職業に関係なく一般的になった。ともかく、こうした言葉を聴く度にチャンネルを変えたくなる(^_^) 謝罪の言葉が「多大なご迷惑とご心配をおかけした」と言う曖昧な2次的な罪?を詫びることで済むらしいのも変だけど。
前にも書いたが、「・・みたいな、・・だったりとかぁ、・・のかな」等々自分の意志、感情、意見ですら曖昧にするのは幼児ではあるまいし、聞きづらい。
これを詳しく書くのは、なかなか大変なので、おおざっぱに思いつくままポイントを挙げると、
1)「・・のかな」というのはお喋り言葉であるが、現代の日本人は「お喋り」しかしなくなっている。ケイタイ文化はお喋り文化であること。関西芸人がもてはやされるのも、関西弁がお喋り言語だから。
人間は言葉で考える、言葉がなければ考えることはできない。考える言葉とは書き言葉であり、漫才やケイタイのお喋りとは異質なものである。お喋り言葉で考えることは難しい。
子どもにケイタイを持たせるべきかどうかは、私が思うに、未成年者に酒を飲ませないのと同じである。子どもは、苦労して対人関係を学ばなければならない、表現には苦痛を伴う、酒を飲んで分かった気になったり仲良くした気になってはいけない。ケイタイを持たせれば絶え間ないお喋りの世界に時間を費やすことになる。子どもは、まだ多くのことを学び、自分の頭で孤独に考えていく力を養うことが必要だ。その時間も能力も奪うことでよいのか・・。
ただし、孤独に苦労して学んでいくためには時間が必要だ。物理的にも心理的にも。その余裕すらないとしたら・・。
2)言葉は、移ろいやすい世界の表象をとどめる確かなものである。少なくとも、そのように、消えるとしても一時とどめておこうという強い意欲の表れである。だから、物書きの人は、コンピューターではなく、紙とペンで考え、書くと言う人が少なくない。コンピューターは訂正しやすく編集も容易、校正、修正も楽である。が、一方、書き直し、書き損じは思考の過程を記録しているわけで、考える人にとってはそれも大切だろう。それに、確かに紙とインクで思考を記録する作業は、それ自体で確かなものを書くという意識を集中するのに役立つ。
言葉を大切にし、それに人の思いや、考え、意志、感情、を込めようと努力する事が人間の営みのかなりの部分を占めるとすれば、曖昧言葉でその作業を安易に停止することで良いのだろうか。
3) 自分の感情や意志についてまで「・・のかな」と付けて喋る人は、結局は何を聞かれても「わかんない」と言ってる子どもと同じで、喋る必要がない。相手を思って曖昧にするなどとは聞こえが良さそうで、実態は、失敗を恐れ、自分が傷つくことを極端に恐れている。そんな状態のまま何かを主張したり伝えようなどとは甘えているとしか言えない。
例えば、そんな人が、音楽で何かを演奏すると言うことが成り立つか。意味がないことだ。どんなに下手でも、演奏するというのは、私はこう感じる、これはこんな曲だと思うと表現することだ。この部分はきれいなのかな・・私はこの曲が好きなんではないかなと思います・・だったら、もうちょっと考えて練習してから人前で演奏しなさいと言われるだろう。自分以外の世界に向かって自分の事をはっきりと表現することは勇気の必要なことだ。そのために自分が傷つくこともあるだろうが、だからこそ努力もし、失敗もバネになりより多くのことを学び、その過程をともにする人も現れる。そこに人としての喜びも生まれようというものだ。
4)現代に欠けているものは品格である。品格とは、ある種の潔さ、理性に従って自分の欲望や感情を制御する姿である。より高い価値のために「煩悩無尽誓願断」背筋をピンと伸ばして誇らしく、自分の欲望、利得、事情・・等を断つ。断たないようになんとか曖昧に逃げてごまかし続けよう、というのは卑しいことである。テレビのニュースを見ていると、如何にこの卑しい人たちが多いことか。政治家、企業家・・色んな人たち、社会的に地位が高い、責任のある人たちの品性が実に卑しい。と言うか、所詮そう言う人たちは卑しい人なのかも・・。昔、日本文化は恥の文化と言われていたのだが・・。「恥を知れ」と言っても意味の分からない人が増えたのだろう。ところで、今の天皇にはある種の潔さ、品格を感じる、日本の精神的窮状を救う役割があるかもしれない。
それはともかく、自分の意見、考え、感じがあるのなら、思い切って潔く、責任を持って表現してみなくては。曖昧な考え、曖昧な印象、曖昧な気持ち(「嬉しいかなと思います」なんて言ってる人がいるが自分の気持ちくらいはっきり言いなさい)に形を与えるのが人間の文化だ。カザルスは若い頃、面倒を見てくれていた伯爵によって、絵画や文学などを体験した後必ずその印象を意識化して言葉にするように訓練されたとか、そう言うことが大切なのだ。
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