ミャンマーも中国も大変な自然災害におそわれている。が悲惨さは自然の力だけに寄るのではない事はみんな知っている。怒りも感じる。でも、ともかく現実は何でも良いから助けが必要。
国連公認NGOである認定NPO法人難民を助ける会では、障害者・最貧困層に直接支援物資を手渡しする活動を展開しています。どうぞご覧ください。
私はたくさんの募金活動等々がある中で、なんとか羽根募金だの、歳末助け合いだの、愛が地球をどうしたなどと言う募金活動は、国の年金同様信用していません。途中でどういう理屈をつけてか、少しづつ必要経費として目減りし、どこかのタレントや、宗教をかたるいかがわしい団体が、職員、理事と称する人たちが、あるいは政府の機関が、要人が、多くの人の善意を吸い取っていくのが普通だろうからです。(本当はそうではないかもしれませんが)法律で厳しく規制があるはずの税金でさえいい加減に扱われているのです、年金なんかご覧の通り、であれば善意の募金なんてこんなものはどうにでもなってもおかしくない。
私は、「難民を助ける会」を地雷廃絶運動の時から支援しています。こうした民間の、援助を手から手へと渡す努力を惜しまない活動に深い敬意を払います。世紀の巨匠チェロのパブロ・カザルスは、第2次大戦後、フランコのスペインに追われ列強に見捨てられたカタルーニャの同胞を助けるため、亡命先のプラドから難民に私財をなげうって援助活動をしていました。助けを求めるたくさんの手紙、そのすべてに毎日涙ながらに返事を書き、救いの手をさしのべていました。そして、民主主義を認めない国では演奏しないと宣言して事実上演奏活動を絶ってしまったのです。世界最高の演奏家にとってこれ以上の自己犠牲はないでしょう。サンサルバドルのカザルス記念館の1室は、その様子を紹介しています。世界中から寄せられた手紙や各界の著名人からの演奏再開の要請文などの展示のショーケースには大きくこう書いてありました。「・・それはできない」カザルスの良心の声です。同胞を見捨てて演奏活動はできない。音楽家である前に1人の人間なのだからと。
余計なことですが、カザルスの演奏する「鳥の歌」はカタロニアの民謡であり、この気高い精神の持ち主が戦後しばらく演奏会の最後に必ず、同胞愛に満ちて平和を希求して演奏した祈りの曲です。亡命先の南仏プラドのホテルの入り口にある番小屋のような小さな借家の入り口には、「El cant dels ocells(鳥の歌)」と書かれたタイルが貼られていました。カザルスの断固たる決意を示しています。この曲を弾く資格のあるものはこの世にはもういないでしょう。
勿論すでにそんなことは忘れられてただ美しい曲として、ただのチェロのレパートリーとしてまあ気楽に弾いたり聴いたりされるでしょうし、音楽とはそういうものですが、難民の事が浮かんでくると思い出さずにはいられません。しばしば問うても無駄だけれど、しかし人間の良心を問うのは人間として存在する以上忘れてはならないことだと思います。そして、「鳥の歌」は平和への歌と言うより鎮魂の曲になってきています。私事ですが、母が亡くなった後倉田澄子さんは私の家で「鳥の歌」を演奏してくださいました。個人の感情や思いを超えて何という深い遠いところからやってくる音楽でしょう。この深さは、すべてカザルスの深い人間性からやってくるのでしょうか・・さらなる深淵からくるものでしょうか
またまた余計なことですが、音楽、芸術に限らず、人間の文化というものは、個人の思量を超えた深いところから生まれてくるものであり、自分のたまたま住んでいる土地を自分のものだと「所有権」を主張するのが基本的に間違っているように、「著作権」などと言って俺が作った俺のものだ、金よこせ等と主張するのは、基本的には、無知と卑しさの故ではないでしょうか。その人固有の業績があったとしても微々たるものであり、これらの権利というものは非常に限定されたものであるべきだと思います。
以上災害と関係ない話でしたが、自分の目の前の現実、自分の利害得失、人間の小さな思惑を超え、想像力を発揮できるときが、人間の証しであるとの感を持ちます。大したことはできないのですが、小さな想像力で小さく羽ばたくことが日常時々でもあることは、何か自由な空気を吸った気がします。
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