その1・・近頃、中高年というか初老というか、そういう人達と話すことが多くなった。と言うか、自分が歳をとったためなので、それが普通なのだけど・・(^^;)今日もオーケストラの練習のあと、昼食会でこんな話が・・
ある女性がいうのに「昔は親は今よりもっとお金持ちだった気がする・・今では親と言ってもお金がない・・」
そういえば確かにそうかも・・と言うより、昔は(昭和30年前後)、お金がなくても幸せだったのではないだろうか。現代ではお金がないと幸せになれないような生活ぶりになっているのではないだろうか。昔は、家族そろっての外食など年に1,2回の贅沢だったはずだし、自家用車などないのが当たり前。今のような電化製品はないし(これは余暇時間と関連する)、遊ぶと言っても子供は全部手作りのもので遊んでいたし、食事と言えば、さかなと野菜が中心で、毎日同じようなおかずが続くこともあった、肉なんか出ようものなら肉だ肉だと大騒ぎだったような気がする・・・「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という歌もあった。昔読んだシュバイツァーの伝記には、喧嘩で負けた子供が牧師の子供で裕福であったシュバイツァーに、お前みたいに肉入りのスープを飲んでれば俺は負けない、と叫ぶと言う話が載っていた。貧富の差とは肉が食べられるかどうかと言う時代もあった。
だから、昔と今とを外から見比べれば今の方が遙かに豊かといえるはず。けれど、昔の方が豊かだったように思うのは、「社会に希望があった」、と一人の男性が発言、全員納得(^_^) 今の子はかわいそうだ・・これも納得。(「3丁目の夕陽」という映画は当時を知るものには大変懐かしくまさにあの通りだった。今から見れば全体が貧しく、しかし、人は親切で助け合っていた。今のようにぎすぎすした社会ではなかった。あの時代に戻ることはできないか、というのが多くの人の思うこと)
しかし納得ばかりしていられない。そうなってしまった根本原因について、人それぞれに考え、そのことについて自分なりの態度をとるべきだと思う。誰か偉そうな人、政治家、大学教授や評論家に任せるのではなく、偏っていようが間違っていようが自分なりに考える事が肝心だ。
あることが分かった、学んだと言うことの唯一の証明はその人自身が変わることであるとはある作家の言葉。
「何となく思うこと」・・その2・・・
「介護」という言葉、これがどうにも好きになれない言葉。「消費者」とか「生産者」とか言う言葉にも似て、こういう言葉には冷たさしか感じない。意味としてはそういうことだろうが機能しか表していない。抽象的、あまりに抽象的。昔ならなんといっていただろう。多分「親孝行」という評価だったと思う。「介護」という言葉には1級2級とかであらわされるような機能しかない、余計な労働、やっかい仕事・・と言う感じだ。
だから介護を巡って兄弟喧嘩にもなるし、面倒だから親を(介護の「専門家」のいる)施設に入れてしまおうと言うことにもなる。これはそもそも昔のような大家族の生活であれば、こういう感覚ではないと思う。核家族になり、それぞれが自由にばらばらに生活しているところに余計な仕事ができてくる。親の介護だ。・・大家族であればそういう感覚ではないだろう。せいぜい「お世話する」であるが、それだってお互いの生活をよく知り、コミュニケーションがとれている中で家族の歴史の中のお互い様の一コマ、親や子や孫との生活の中で、ごく当たり前、自然に、だから、ある人に特別の負担がかかるという感覚のものでもないのではないだろうか。そういうものを失った結果、家族の歴史や環境など無関係に物理的な介護と言うことだけが取り出されている感じ。
豊かな生活と言うことには、豊かな言葉、ニュアンスの豊富な言葉が付いてくるものだ。親孝行には豊かな意味があるが「介護」には何も心に響くものはない。そういう言葉を使っていると、それだけの意味しかないしそれだけの生活しかない。介護される側だって、ただ申し訳ない、情けないという感覚になるのではないだろうか。親孝行できる幸せとか、子供に面倒見てもらう幸せとか(分からないが)、そういうニュアンスがなくなって良いのだろうか・・・
戦後のアメリカの占領政策によって日本人の幸福感は大いに変容した。イラクを見ていれば分かるように(それは戦後の日本統治を見本としているのだから)、アメリカの都合の良いように案配されている面がある。一般的によいことも多いが、核家族化などはアメリカの小麦を輸出するためだったという説もある。家長制度を廃止し、核家族化を推進したことは、負の面も持っていた、それが今になって顕在化している、と色んな場面で思い当たる。みんなが平等であるべきなことは良いが、家族であるにはある秩序、共同幻想のようなものが必要だ。子供というのは親あってのもの、親が亡くなれば子供はただの赤の他人。兄弟は他人の始まりと言う言葉があるが、キーが外れればばらばらになる。「家」というものがなくなれば、依って立つところもなくなる。お墓のことを含めやらなくてはならないことがまだ残されている。
「何となく思うこと」・・その3・・・
世の中不況が続いている。就職難も甚だしい。又少子化で、音大生も減っているらしい。たとえ卒業してもプロの演奏家になれるのはごく稀。プロの演奏家と言っても、たまたま美人だのイケメンだのという条件がそろっているとか、コンクールに入賞するような実力があればまだ別だが、そうでもなければ大変苦しい。一方で、アマチュアの方は数がどんどん増えているようだ。
私が思うのは、音楽が好きでプロを目指している若い人をなんとか少なくともアマチュアの音楽家達は支援できないかと言うこと。音楽産業界にとってアイドル・タレント的商品価値が乏しくて、なかなか表舞台で演奏する機会がない演奏家にその機会を提供すること、ギャラは二の次。どんなに可能性があってもランチでしか集客できないフレンチレストランでは、シェフの力も発揮されないからやがて質の低下は否めない。だから、心ある支援者は、時々は夜の最高級のディナーコースを注文して腕を思い切り発揮できるようにする。同じように、演奏家に対しても、たとえアマチュアであっても協奏曲などの演奏機会を提供するようにしてはどうだろうか。
一般論を述べているだけでなく、その人なりにそれなりに筋の通った考えを持ち、身近なことで具体的な対応・行動をとることで、小さいけれど社会に少しづつ希望が芽生えてくる、筈。希望は乾いた大地からは生まれない。人それぞれのニュアンス豊かな柔軟な包容力のある社会が必要だ。それは政治家が作れるものではないし、誰かに言われてできるわけでもない。無機的で冷たい言葉に慣れることに警戒もしなければならない。嘘は泥棒の始まりと言うが、何事も小さな事から崩れていくのだ。逆に犯罪の多発する街が落書きを消すことで犯罪が減っていくという実例もある、小さな事(ただし筋を通して継続すること)が大切。
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