25日は月に1度のチェロアンサンブルの練習日。朝10時から先ずはワーグナー、パク、のこれまで練習を続けている曲。
毎回、アンサンブルの練習をしているとどうしても気になることがあって、「その音は何だ?」「その運指はおかしい」「その音の出し方はおかしい」・・などなどヤジと怒号が飛び交う(?)
その中の1つのやりとり。「ナマの音を出すな」「ナマの音ってなんですか」「楽音じゃない音だ」「??」・・つまりどんなに正しい音程とリズムで弾いても音そのものが音楽的にコントロールされない音は騒音(公害)である。音の質が問題だ。たとえ練習曲でも、いつも良い音を出そう,チェロらしい美しい響きを作ろうと常に思っていなければ,ただの近所迷惑なうるさい音になってしまう。子供のピアノの練習みたいに。地声で歌っているようなもの。これでは怒鳴っているのと変わらない。
もう1つ 初中級者?の演奏で思う事は、1つ1つの音を後押しするような音の出し方。発音が悪く音の立ち上がりが遅い,と言う技術上の欠陥と,丁寧に心を込めて音を出そうとする(よかれと思っているが勘違いの)善意?も手伝っているのかも知れない,この2つが背景にあるのではないかと思う。本人はなかなか気がつかないらしい。1つ1つの音をちゃんと(?)弾けば音楽になるわけでないしメロディ、フレーズを考えて音の全体像、姿,方向性・・がなくてはいけないって事。ソロでよく知っている曲を弾く時はある程度改善されるけどアンサンブルになると意味のないただの音の羅列になる。1つ1つの音を出会い頭にぶっ叩いている,メロディも意味も音楽の流れも何もない、これを私は「モグラ叩き奏法」と呼んでいるのだが、まだ一般的な理解に至っていない(^_^)
モグラ叩き奏法とは、例えば、本来「色は匂へど 散りぬるを」という七五のリズムに乗って意味もニュアンスもある短歌を「いろはにほへと ちりぬるをわか」と何の意味もリズムもなく言うのと同じ。これを直すには、プロの演奏をよく聴いてみること。すると自分がどんなにバカで無感覚か分かる(^^;) プロの演奏と言うより曲本来、音楽本来の意味、心のありように気がつく。小さな自分に拘泥して閉じこもっているのが情けない。アンサンブルの中では,メロディを誰が弾いているかどんな風に弾いているか,自分の役割は何かということの方が自分の1つ1つの音より大切だ。とはいえ そもそも外国人が日本の「いろはにほへと」をすぐには理解できないように,日本人が西洋の音楽を分かると言うことが難しい。だから、海外留学などをしてその空気を体で理解しようとするのだろう。「いろはにほへと」が「色は匂へど」という意味であり、「色は匂へど 散りぬるを」で1つの意味をなすフレーズになる,ということが考えなくても分かるようになりたいものだ。アンサンブルをする時は,これが共通の認識でなければ音楽にならないということ。
音の後押し(というか音のぶつ切り)をするのは,その人のクセだからなかなか直らない・・という意見もあるけれど,そのクセは絶対に直さなくてはいけない。昔ピアノを弾いていた人は鍵盤を叩いたら終わりで音を延ばす必要がないのでそういう感覚に乏しい,と言い訳する人もいるようだが、そもそもそのピアノに飽き足らないから弦楽器をやっているのではないだろうか。直らない人は,弦楽器はやめてピアノを弾けば良いと思う。(まぁ、それだって本当はピアニストだってデジタル的に「イロハニホヘト」としか弾けない訳じゃなく「色は匂へど」と弾けるはずで、そんな弾き方はやっぱり子供のピアノ練習のレベルだけど)そんな弾き方しかできないことを恥ずかしい事と思わなくては始まらない。
音の後押しとは、い、ろ、はのそれぞれに重みをかけ、<>音を膨らませるような弾き方。ついでにそこに何の流れも意味も感じていないから,1人が 「散りぬるを・・」と言っている時に余韻も何もなくて機械的に「ちりぬるをわか」という。散りぬるをといったら散りぬるをと言う。コダマでしょうかいいえ普通です。
これに限らず、人は誰でも、出来ないことの言い訳、理由を語る時は雄弁になる。出来ないこと知らないことを正当化してどうするのだ。
ソクラテスの有名な言葉に「無知の知」というのがある。人間はどんなに知識を積んでも神に比べたら無知である。限りなくゼロ。けれど、自分はすくなくとも自分が無知であることは知っている。ゼロ+1は 1だ。音程が悪くてなかなか良い音が出せないが自分が音程が悪いと知っていることは大いに希望がある。100間違った上にそのことを知らないのに比べると無限に希望がある。
チェロは難しいから,情けないほど出来ないことが沢山ある。しかし、そのことをいい加減にして言い訳ばかりしたりテキトーにやっている限り、出来ない(ゼロ)×無限だ。自分が何が出来ていないのかということをきちんと知る事は、少なくとも、ゼロ+1。いつも意識し心にとめているだけで、1が2になる。大したことはないと自分では思うが、相乗作用でアンサンブルでは1人が2になる事は全部で8以上だ。
考えて見ればアンサンブルは足し算だけではなく、かけ算的要素もある。周りがいくら2や3であっても自分が0なら全ては0になる。だから少なくても0ではなく1でなければ始まらない。誰だって0の人とは合奏したくない。
事実を知ることは苦しい。自分がどんなに気が遠くなるほど下手か,出来ないか、と知ると,もう才能がないからチェロはやめようと,きっと思うだろうけれど、無い才能を自分で作るために練習しているのだ。「無知の知」が人間の全ての始まり。
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