チェロの先生が、生徒の成長を諦めたら、もう厳しいことは何も言わなくなるだろう。私ですら、人の演奏を聴いて、コリャ駄目だと思ったら、もうなるべく褒めることだけするだろうし(でも社交辞令は苦手だからそういうこともない)、余計なお世話でケチを付けるときはやればできるはずだし、コツを教えたいと思うからだ。
私がどういうつもりで練習しているか先生は分からないらしい。私は曲を弾くことにそんなに興味がない。好きな曲があってそれが弾きたいからレッスンに付くと言うわけではない。私は練習する事に意味があると思っている。オーケストラでも本番より練習が楽しい(逆の人が多いけど)。本番なんかなくても構わないし、普段の練習には出てこなくて本番近くになると参加するような団員も前のオケにはいたけど、今のオケは老人ばかりのせいか、いわゆるトラはべつにして、みんな練習にまじめに出てくる。みんな聴衆のためではなく自分の楽しみのために練習に参加していると言うこと。
そもそも、好きな曲をお客さんの前で弾いて喝采を浴びる、なんてのが目標の人は、悟りを開いて極楽往生する事を夢見る人のようだ(変な譬喩(^_^))素人や凡人がそんなこと考えてどうするんだ。今、目の前のことがあるだろう。大昔、カザルスの演奏がきっかけでいきなりチェロを始めたとき、既に楽器を始めるには遅すぎると感じでいたから、もう無理だと思う一方、無理でもやりたいと思った。それはチェロを通じてひたすらカザルスの後をたどって行きたいという一心だったから、つまりチェロは道具で目的は修行?といったようなものだった。チェロという楽器について知り、チェロの音楽を聴くようになったのはその後の話だった。小さい頃からレッスンを受けてきたチェロの先生はそんな体験はないだろう。これは一種の宗教体験と似ていると思う。「法竹(ほっちく)」という音楽?禅の一派?があるが、それと似ている。
そんなことはどうでも良く、どの曲を弾いても、練習曲でも、弾いていれば好きになるし、気持ちは変わらない、充実した良い音で弾きたい、より真実に近づきたい。それは志の問題だ。少しでも小高い丘に登れば、遙かなる山の峰々が、少しはよく見えるようになる。ハイビジョンや空想で見る事はできるとしても、全身全霊で見る事ができるのは、練習による正しい努力しかない。チェロなんかどうせ上手にならないし、聴いてるだけの方が良い、と思っていた時期もあるけれど、聴くのとやるのではえらい違いだ。下手でも何でも、実際に自分で歩くことでしか得られない事がある。だから、初級者でもへたくそでも、遙かなる山の峰々に至る正しい道を歩んで欲しいと思わずにはいられない。人は常に途上にある、そのあり方だけが問題。
今から16年前、倉田澄子さんがカザルスホールでの「カザルスに捧げるチェロ連続リサイタル」で、演奏したとき、プログラムに文章を書けと言われて書いたものがある。(名だたる演奏家ばかり6日連続でのコンサート、プログラムの執筆者も名だたる方ばかりの中ド素人の私が生意気に紙面を汚している(^^;))ただ、言いたい内容、今でもその気持ちは変わらない。じょうろで作っても虹は虹。下手くそでも音楽の本質を宿す演奏を目指そう。
カザルスに憧れて、始められたんですか。
虹ですか。なるほどねえ。
「これで良い」ということはありませんし、
求めて歩む道のりに意味がありますからね。
求道的なアプローチ素晴らしいですね。
とある名門合唱団は「練習のための練習」ということを大切にしています。
goshuさんの高い志には遠く及びませんが、
私も練習が楽しい方です。
演奏会の有無は気になりません。
まあ、あればあったで励みにはなりますけれどね。
演奏会がないと熱が入らないという人も事実いますから。
まあ、人それぞれなのでしょう。
倉田先生は、演奏会を一回聴かせていただきました。
サインをして下さったときのご様子だけでも
素晴らしいお人柄がわかりました。
チェロ講座のDVDも観ましたよ。
また、観たくなりました。
貴重なお話、ありがとうございました。
投稿情報: えにお | 2012-02-03 02:53
えにおさん こんにちは
あのみにくい画像を読んでいただいたのですね。それほど高い志があるわけではありませんが、楽しければそれで良い、という風潮とは違うというだけのこと。演奏家は、客に受けることを考え、音楽「産業」は盛んのようですが。楽しんでいる人を否定するつもりもないし、楽しい事は良いことだ、健康にも良いし、ですが・・。時代背景もあるんですよね、きっと。カザルスや、ロストロなんかは、祖国が戦争と迫害と混乱の時代を生きた人達だから、本当に悲しいこと、怒ることが沢山あった。だから、自分の命をかけた音楽が楽しければ良いとは絶対に考えなかったでしょう。
投稿情報: goshu | 2012-02-03 10:09