昔、旧国鉄のストなどで「合理化反対!」と叫ばれていて,小中学生の頃の私には、この意味が分からなかった。合理化とは良い意味だとしか思えなかったからだ。言葉の表の意味とそれが実際に使われる内容とでは違うのだと分かるのに随分時間がかかったものだ。合理化とは言わば錦の御旗のようなもので、権力・財力のあるものが,いかにも正しく当然のように主張する言葉の1つだ。これに反対する方は,それだけで不利な立場におかれる。
言葉はその人と時と場所を離れて意味をなさない。
やーさんが難癖を付けて誠意を見せろと言う時、その意味は恐怖に値するだけの金を出せ,と言っているわけだ。言葉がどんなにきれいでも,どういう人が,どんな顔して,どういうタイミングで,どんな状況下でそう言っているのかを見なければ実際何をしようとしているのか判断出来ない。
介護や保育の問題が随分指摘されるが、問題点が指摘されているにもかかわらず,政府や産業界からの答えが、堂々と?とんちんかんなのは立場が違うからだろう。介護が大変で人手不足ならロボットを導入すれば良いという。(そうすれば人件費をこれまでより安く出来るし,労働者にももっと沢山の仕事をさせられる。これを「合理化」という)・・それでふと思い出したのは石川啄木のこの歌だ。
「たはむれに 母を背負いてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」
啄木の性格が実際はどうだったかは別として,年老いた親の細い背中に気づいたり,背負ったりした時このような感情を持つのは経験者なら分かる(ロボットには分からない)。私の妻は年々背が小さくなり,若い頃に比べて7cmは背が低くなっているから、同じように感じる。3人の子供を産み育てて一生懸命働いてきた証拠である。子育てでも、子供に直に触れ毎日食事や様々な世話をしていればこそ,子供は健全に育つ。ロボットにさせても,あるいはロボットのように機械的に物理的にやることだけやる,と言うことでも作業としては完了するかも知れないが、そこに心の交流がなければ,本当に育てたことにも介護したことにもならないだろう。命を守り育て看取る事は、物理的な事だけではないのが当然。このことに畏敬の念を持たなければ始まらないのではないだろうか。
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