表題はちょっとだぶっている感じだが(^^)、年金生活が近づいてくると考えるのは、どういう趣味を持とうか、生き甲斐をどうしようか、と言う事らしい。
実は、そういう話題を目にする度、趣味的人生を送っている私としては、コース料理の最後のデザートをどうしようかみたいにとってつけたような趣味や生き甲斐なんてあるものか、今更何を言っているのかと思うのだが、それはさておき、何か趣味がある、趣味を持ったとして、例えば、書道でも、音楽でも、何か楽しみを見つけたら、ただ、その技術を習得するだけでなく、より幅広く楽しめるように手探りしながら工夫するとすばらしい。ひたすら練習して最大でプロの出来損ないになるだけでは仕方ない。寄り道し時には道に迷いながらその風景全体を楽しむという気持ち、仕事とは異なる頭の使い方、少しづつ自分が豊かに深くなる気分、それが趣味。
こういう学びや習い事について古くに書かれた名著(といっても本人が書いた訳ではない。古来、聖人ともうたわれるような人は本は書かなかった、皆、周りの人間が書いて残しただけである。ソクラテス、仏陀、キリスト、そして孔子も。皆生身の人間を相手に語りかけた言葉である)、それは「論語」である。
「論語」の冒頭の言葉は、「子の曰く、学びて時に之を習う、またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、またたのしからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや」
まず、余人の知り得ぬ学ぶ事のたのしさを一番最初に掲げているのだ。
孔子は古人に学び、現実の政治に生かす事を説いているので、勿論趣味の事を言った訳ではないけれど、通じる部分も多い。この後もはっとするような言葉が次々と書かれている。学ぶ事や教える事、人の道について、その個性ある弟子たちとの応答は面白い。たまには埃を払ってご一読を。自分の趣味を通じて孔子の言葉が生き生きと聴こえてくるのは、またたのしからずや・・。
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