Twittertというのはつぶやきという意味らしい。言わば独り言だ(と言うか独り言のように相手に対する責任を感じないでいる言葉)。こんな場合、掲示板にしろブログのコメントにしろだが、書き込みに対する返答というのがいるのだろうか、と時々思う。
その昔、電子メールが普及し始めた頃、これは便利だと人にも勧めた。その理由は深夜早朝に関わらずいつでも自分の空いている時間を使って送信し、受ける方もいつでも手の空いているときに閲覧したり、返事をしたり出来る。お互いのプライバシーを大切に出来ると言うのが電話と違う利点と思ったからだし、最初はみんなそう感じていた。
ところが、ある時からメールの後に電話がかかってくるようになった。「メール送ったんだけど読んだ?」と言うわけだ。同じ事は昔ファックスができたばかりの頃にもあった。送れたかどうか心配というのが黎明期らしくて良い。ところが、メールの場合、段々その意味が「返事が遅い!」というクレームに変わっていった。そんなに急ぐ大事なことなら最初から電話しろよ、と言いたいところだが、どうやら携帯電話でのメールが普及したのと期を一にしている。若者の携帯電話やメールは、頻繁に行われる。ごく普通のお喋りと同じ感覚だ。
こういう頻繁な無駄口のやりとりが途絶えると急に心配になるらしい。なかば強迫的に(言葉の)やりとりをしているようだ。
私が考えるのは、これがコミュニケーションというものか、あるいは逆に、そういう頻繁でない、あるいは一方通行のものはコミュニケーションではないのか、ということ。
無駄に長くなるのもナンだから結論を書いてしまおう。私は、言葉によるコミュニケーションだけでなく、絵画も音楽も芸術はコミュニケーションの一種だと思っている。ベートーベンは楽譜に「心から出たものだから心に伝わるように」と言う意味のことを書いている。ここには、同時的な言葉のやりとりはない。時も空間も隔てて一方的である。けれどそこには、絶え間ないお喋りをしている限り伝えられないし聞くことも出来ない心があり、それが投げかけられている。はっきりと聞き手を意識して投げかけられた言葉や音楽は、独り言やつぶやきとは違って開かれたものである。これを受け取ったとき、そして聞き手がその意味を悟ったとき、そこにはコミュニケーションが存在する。と思う。
芸術に限らず、聞き手の心を開き、その意味を深化させる生きた言葉(音楽、絵、詩など)がある限りその人の心は死なない。
だから、(やっと本題に戻ってきた)、メールや書き込みに返事をいちいちしなくても、あるいは書いたのに返事がないと文句を言わずに、理解してもしなくても構わないから、正しい言葉を使うようにしたい。返事があればあるに越したことはないかも知れないがそれは重要ではなく、心に届く言葉を書いたかどうかが問題。
2010/3/4 追記
こんなアンケート調査の結果が出ていた。
「Web上のつきあいに疲れたことがある」人は5割
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