今、思いついただけなんだけど、チェロがフランスとかイタリアとか、どこの国の製作かって事は、今や意味がない、国による特徴なんかないと言うことになっているらしい。演奏についても「○○派」「○○流」とか言うこともなくなってきているらしい。
鎖国をし、各地域との交流も制限されていたあの江戸時代に日本の今の文化の伝統が作られた。自由になり民主主義が形だけでも一般的になった現代に何か魅力的なものが作られているだろうか。ヨーローッパでもしかり、みんな昔の封建時代の遺産で暮らしているのではないだろうか。観光にわざわざ出かけるのは、ほとんど封建時代に作られたりその時から始められたものばかり。古ければ良いと言うわけではない、アルタミラやラスコーの洞窟がいくら有名でも、それを見て「いいなぁ」と思う人はそうはいないだろう。封建時代というのが今の我々にとって基盤となるような特殊な時代なのだろう。
これは、製品や技術などの価値を決める基準がどこにあるか、ということだろうか。
日本美の結晶とも言われる京都の桂離宮、江戸初期の作品だ。徳川家康のせいで天皇になり損なった八条宮智仁親王父子が、作った別荘である。徳川の武家政権に対抗して自分たちが日本文化の守り手であることを精一杯誇った、こりに凝った意匠がちりばめられている。経済性や合理性を度外視して感覚を研ぎ澄ませて全てが美のためにある。そこまでしたのは、そこにこそ自分たちのアイデンティティーがあると信じたためだろう。そしてそれを認める大きなコミュニティもあったということだ。
産業革命以来、爆発的な勢いで生産される機械製品は世界均一、世界共通の価値観に支えられて世界中に広まった。「安くて良い」というのが多分合い言葉で、自由な市場経済、自由貿易・・・とか言ってるのもそれだろう。大衆文化というやつだ。ハンバーガーとかコカコーラとかが頭に浮かぶ。(日本のカップヌードルも今やマクドナルド並になってきているかも。)この「安くて」は客観的基準に裏付けられるが、「良い」については本当は簡単ではない。
しょっちゅうインスタント食品やファーストフードを食べ付けていると舌の感覚が段々麻痺してくる、生物的に退化して来る。だから、もはや「本当に美味しいもの」「本当に良いもの」を見分ける能力がなくなってくる。その上で、「良い」と言っている。これは全てのことに当てはまる。
封建時代に形作られ基礎を持っている良いものが次第に失われ形骸化し、コミュニティが失われ、逆に世界は何となく1つになっている気がして、今自分たちだけで良い良いと満足しているものの正体は何だろうか。
大震災や、電力問題などで これまで普通と思っていた価値観に疑問を持った人が多いこの年、政府、官僚、マスコミの洗脳によって、段々、又元通りになりつつあるようだが、それで良いのだろうか。
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