考えてみたら、私は、たくさんの本を読んだり、たくさんの曲を次々と聴くとか、そういうことはしてこなかった。いわゆる乱読派ではなかった。小学校の時は、少年国史、とかいう歴史の本の平安時代の巻が大好きで何度も何度も読み返した。
チェロの曲も、練習のためにいろいろ弾くことはあっても本当はあまりいろんな曲を弾きたいと思わない。(でも、1度弾いたらもう弾かない,ほかの曲をやるという人もいる。)聴いて良いなと思う曲は沢山あっても、特に弾きたいとも思わない。
ヘッセの「シッダールタ」も長い間、私の愛読書だった。この文庫本は、紙の縁が綿のようになっている。何度読んでもその内容をきちんと理解したとは全然いえない。わからないことがいっぱいあり、不思議なことがいっぱいある。それでも強く心惹かれるものがあって、何度も読む。おもしろいことに、訳がわからなくても、何度も何度も読んだり聞いたりしていると、その本質が体で分かってくる、逆に、分かってくるのではなく、はっきり、分からない、おかしい、ということもある。それはともかく、チェロの曲で,そんなものと言えば,バッハの無伴奏組曲だ。何しろ、たった一人で良いところが良い。それでは音楽の楽しみの半分以下ではないかという声も聞こえるが、そう言われても仕方がない。
関係ないけど,仏教伝説では、世界が激しく鳴動したことが4度あるとしている。1度は,釈迦がこの世に誕生したとき,次は、悟りを開いたとき、そして,説教を始めたとき,そして涅槃に入った時,この4度だ。ほかの3回は,個人の出来事だが、説教を始めたという事件は、他人と関わったと言うことで、それを一大事件としているのだ。なぜ、そんなことをしたのか・・これは永遠の謎だ。だから、禅の代表的著作である臨済録にも、たびたび「如何なるか、これ、仏祖西来の意」という言葉がある、これは達磨大師がなぜインドからこの中国にやってきたのか」と問うているのだ。それをどう見るかにその人のすべてがある、ということ。それはこうこうと概念的に答えるのも簡単だが,では、それはどういうものか,と問われると言葉に詰まるだろう、それが説明できるには達磨の精神に立ち入らなければならないのだから・・・。このわけの分からぬ問答もきっと訳が分からないということに意味があるのだろう。分かってしまったらつまらない。いつも、どうしてだろうと頭の中に解けないものを抱えている、これってすばらしい。だからその時々によって様々な可能性が広がり,いろんな思いが続いていく。バッハの無伴奏もそういう尽きることのない楽しみに溢れていると思う。唯一学問的に正しい弾き方、解釈がある(今は,学問が遅れているので発見されないだけで,疑問のない正しい事実はある,と考える)のではなく、人それぞれ,その時々の状況により違った面が次々と発見される,それこそバッハの偉大なところだ。科学の厳密は,形而上学の厳粛に遙かに及ばない,という言葉があるけど、芸術も人の生活も、外から説明できるとかモデル的に理解できるとかとは別のものだ。
段々,自由連想的になってきた(^^;)
夏のシーズンに入って,やっと7月が終わろうとしている,ちょっと疲れがたまってきたかな・・ま、明後日は上京して、赤坂で子供と食事、翌日は倉田先生のコンサートだ。ちょっと休んで、また、がんばるぞっと。
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