現在、宮内庁式部職学部 首席楽長という偉い地位(日本雅楽の総監督みたいなもの)にいるO氏とは20数年来のお付き合いである。毎年夏の今頃、主宰する弦楽団の合宿でお見えになる。今回は、雑誌の取材があり、6ページにわたって記事になっているのをお土産と一緒にいただいた。読んでみると大変おもしろい。
・・・重要なのは,文化の継承で,後進の指導だ。若い人に教えるとき,合理的に教えると,伝統が軽くなる面がある。伝統的な音楽性のあるなしも大事だけど、吸収しようとして努力すれば,音楽性は生まれるものだ。何遍も唱わせ、吹かせて楽曲が体にしみるまでやらないといけない,それが伝統的なことの「上塗り」の世界だ。・・・」
スポーツの世界で,しごきとかいじめとか、問題視されるようなことがあるけれど,スポーツ科学という分野があり、昔とは違って合理的に最短距離で記録を生み,金メダルを目指す研究は各国で盛んであり、そのための莫大な予算も投じられている。裸足で根性でがんばるのは昔のことだ。
けれど、芸事の世界では,合理性だけでは割り切れないものがある。体の使い方に関しては,解剖学的にも合理的な奏法が研究されてもいるし、合理的で楽な運指も人それぞれ研究している。が、肝心の音楽性については,合理的な方法というのがあるのだろうか。いわば不合理ではなく,非合理のことだ。雅楽の稽古の中では,年に1度お寺にこもって合宿で何時間も吹き続け唇から血が出るほど根を詰めたりすることもあるらしい。演奏するだけなら,音楽を楽しむだけなら、そこまでするのは意味がないこと、といえるかもしれないが・・。そもそもの根源に迫らなければ伝統を継承することはできないだろうし、あらゆる芸術は,ラスコーの洞窟壁画に描かれた血を流す牛を暗い洞窟で描いた精神に戻るのかもしれない。
それと、雅楽の演奏で一番大切なのは、音楽とか意味とかより音色にあるらしい。
「音は全部カナフといって、カタカナで覚えるが、それ自体には何の意味もない。・・歌謡曲なら愛しているとかあるが,そうしたものはない。何が一番大切かというと音色が良くなければいけない」
これは、ある意味、「法竹(ほっちく)」という禅の一派?の考えと似ているのかも。それが西洋の音楽とこの日本の音楽との大きな違いだろうか。尺八でも、理想の音は、竹林を渡る風の音を再現することにあると聞いた。その音を狙っていつも修行するということらしい。メロディとかなんとかではなく、一音入魂である。フルオーケストラでは足りず,合唱団、太鼓や大砲まで持ち出すのとは違って、たった1本の楽器でたった1つの音を出すことにかける美意識。けれど、こういうことは決しておかしなあり得ないことではない。私がカザルスに感動したのはたった1音だったし、キリストでも釈迦でも、その姿を見ただけで帰依する人がいる。何も言葉も説教も大げさなショーもいらない。一期一会のそういう世界がある。もちろん,求める心があればこそだから、一般的に客観的にどうのというクダラナイ話ではない。
O氏は、雅楽だけではなく、宮中では洋楽も担当するし、高校の時から始めたチェロも相当の腕前だ。チェロもとても良いものを持っているし,先日のコンサートでも、弦楽をバックに「愛の挨拶」を見事に端正に正統的に弾かれた。
関係ないけど、弓のこと。 楽器の目利きでもある氏に、あとから私の新しい弓も使ってもらった。自身もコレクションの中にHillのベッコウ弓もあるとのことだが,弱すぎて使ってはいないとのこと。これは、「弾きやすい,明るい音がするし・・難を言えば,少しまとまりが悪いような・・でもよくできた弓。私も欲しい位・・」ということだった(^_^)
いろんな人に弾いてもらうとそれぞれの特徴が浮かんでくる。弾きやすい,というのは誰もが感じる特徴、発音がよく大きな音がする。私の新しいフレンチチェロも,弦(パーマネント)も明るい音がするのが特徴だし、全部それ系で’よいのかなと逆に心配になったりする。しかし、明るい音を基本として持っていなければ後から付け足すことはできないだろうから、それはそれで良いか。人間も楽天性や明るさ、善良さを天性のものとして持っていることが重要だと思う。これは生命本来の特徴だと思うし、赤ん坊の明るい笑顔がすべてを物語っている。それを傷つけ、損ない、命を暗くしていくのが世の中だ。芸術というのは,そこに再生の光を当てるものなのかもしれない。
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