京都烏丸五条から1本南の住宅街にぽつんとあるおはぎ専門店「今西軒」。9時半開店でもう並んでいる人たちが・・台風の近づく雨の中、熱心なことだ。明治30年以来長年おはぎしか作っていない。そういう店が生き残っていけるのが京都。
3年程前から、京都KBS TV系列で放映していた「和菓子で巡る京の四季」を見ていて、その中で紹介されていた店。
これまで食べたことのないような上品な甘さのおはぎ。これはファンになる。
京都について、高校時代から毎年2回は訪れて庭や仏像などはよく見て回ったが、もう少しディープな京都を知りたいと思った。その時、なにかよすがとなるもので楽しみにもなり手軽で奥が深い物と言うことで注目したのが和菓子だ。京都の和菓子と言ったって材料は大体決まり物で味にそんなに差があるものでもない。京菓子を成り立たせているものは、そこに込められた京都の風習・文化・歴史・生活感・・などである。だから、季節ごと、お祭りごとのお菓子を1つ1つ見て食べながら、少しづつ京都という物に触れていける。
こういう何か京都的な物とは、言い表せば、古き良き物を守っていく、手作り、丁寧、地域に生きる、おなじみさん、大きな利益を求めない、少数精鋭、顔の見える商売、・・・
私の知り合いのおもちゃ屋さんが、ヨーロッパを旅行してスイスで良質の木のおもちゃに出会い、メーカーに大量生産してどんどん輸出してはどうかと進言した所、それはしない、これだけの数を作って家族が生活していけるし、大体、大量に作ったらすぐに飽きられるし今のままで良いと言われたそうだ。京都には沢山の和菓子屋、パン屋、喫茶店など小さな店が沢山あるが、おそらく、古くからやっている店なら同じように言うだろう。菓子は歩いて行ける範囲のご近所さんが買ってくれれば良い、よそのお客さんを奪う気はしないし、おなじみさんだけだから手も抜けないし、しかし工夫をすれば分かってもらえる・・
東京も昔はそういう店ばかりだったしそういう生活を営んでいた。次第に、簡単に言えば金儲け主義が蔓延して、生活環境が破壊されていった。便利になったとか経済的だとか言うことも確かにあるかもしれないが、だからどうした、便利になることと豊かな生活をする事は別だ。インターネットは超便利で欠かせないツールになっているが、それでどれだけ幸せになっているかは分からない。瞬時にメールで沢山の人とやりとりできることと、昔のように手紙を書いて往復で早くても1週間かかるようなやりとりとではその質が全然違う。
高齢化社会ということだが、夫婦2人または1人の生活になっていくと、それまでの大量生産大量消費のメリットは意味が薄れていく。例えば、炊飯器。家族4,5人でそれぞれ食事に時間差があったりすれば、沢山炊いて保温しておくという必要もあるだろうが、2人になると、我が家では土鍋で1合のご飯を炊けば足りるし、おいしい。セットしてスイッチを押せば短時間で何かが自動的にできあがる、結果がすぐ出るようなことは便利だろうが、それが便利だと喜んでいるような生活は時として薄っぺらだ。豊かさとは時と共に熟成する過程にある。
デジタル社会になっていくと何がおきるかというと、私が考えるには生活が抽象的になっていくという事だと思う。しかし、●●とはさみは使いようで、デジタル技術によってより実感を伴った人間の感性に忠実な物も出来ているはずだし、スティーブジョブズが言っていたようにさらに人の感性を広げより豊かな世界を広げるような効果もあるだろう。と言うかそれを目指さなくてはいけないだろう。
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