土地と気候とその場所それぞれに適した苔だけが生き残り繁殖する。日当たりの良い所を好むのもあれば半日陰が良いのもある、それぞれ苔の種類が違う。長い時間を掛けて自然に淘汰されて、庭であればさらに人の手が加わって綺麗な苔の庭が出来る。枯れ葉が落ちれば1枚1枚手で摘まんで取り除き、雑草も1本1本手で引き抜く、と言う作業を毎日のように繰り返す、でないと維持できない。水やりも多ければ良いというものでもない。最近よく分かってきたのは、土だ。保湿性の良い土が必要で、さらに温度もある程度なければいけない。大きな木の根の周りに綺麗な苔が集まっているのは、木の暖かさがあるからで、ただの公園のようなところで苔は育たない。古くからの大きな木の沢山茂ったような所の苔が綺麗なのは、京都の庭を見れば分かる。冬、雪が大きな木の根の周りから溶けて行くのは樹の暖かさの証明だ。都会で苔庭を人工的に造っている所では、床暖房ならぬ土の下から暖房をして時々霧を吹きかけている。見ている人には分からないが、お金と手間がかかっている。
数年前から手入れを始めたが、前は1年しないうちに枯れてしまったりしていたが段々安定して増えてくるようになった。綺麗じゃないと気に入らない、ただそれだけの理由だ(^^;)
数年前から手入れを始めたが、前は1年しないうちに枯れてしまったりしていたが段々安定して増えてくるようになった。綺麗じゃないと気に入らない、ただそれだけの理由だ(^^;)
「花は愛惜に散り、草は忌嫌に生うるのみなり」(道元)
この「正法眼蔵」に書かれた言葉は、ごく当たり前の事をそのまま言っているだけだが、でも、花は美しく、散れば寂しい、雑草はイヤだと言う感情をもそのまま肯定しているということだ。花と雑草も同じ生物だから差別しないとか無感情では決してない。「死は一時の位なり、生も一時の位なり」と言う言葉も前から引っかかる言葉だが、それはそれぞれは別の物だ、ということだろう。別の物の想像や判断は出来ないし、しない。今ある所その場限りという意味だろう。今をあるがままの感情(心情)で豊かに受け入れて行くこと以外に別の形があるわけでは無いということか。・・これも当たり前のなんでもないことなのだが、しかし、実際、当たり前でない考えや感情・主張などが日常的に巾を効かせているのが現実だ。人間、当たり前のまともな状態である事の方が難しい。そのことに時々気づくことが大切・・
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