昨日チェロケースのことを書いたついでに奴隷根性と言うことをつぶやいた。もっと正しく言うと、「権威」と言うことについて思い当たった。人は自由かそうでないか、と言う難しい問題があるが、人は元々権威に従うように出来ているという学説をどこかで読んだ記憶がある。それを調べようと検索したら、聖書のロマ書を元とするキリスト教関係のものばかり出てくる。曰く、世の中の権威には全て従え、と言う教え。ちょっと検索語を間違えたようだ(^^;) 人が自分の自由意志?とかでなく闇の支配を受けているというのは確かなようだ。自由だと誤解している限り支配の中だ・・頭の中に留めよう。
昔、民主主義について考えたことがあり、その前提となっているのは人間の成長原理だと思った。異なる意見が衝突するという場合、「よりよい結論に導く」ために対話する、相手を尊重し理解し自分を変える(成長)と言うことがなければそれは不可能だ。成長すると言うことはそれまでの権威を壊していくと言うことでもある。民主主義における決定とは、常に暫定的なモノで絶対的権威ではない。その集団の全ての人が意思決定に参加し全ての人の意思を反映すると言うことはあり得ない。多数決は暫定処置で、少数派がいる以上、それ(基本的人権)は尊重されなければならない。従って、1つの決定はその時の妥協の産物であり後から変更可能にしておく、意思決定過程を明らかにして残しておくと言うのが民主主義の知恵だ。このようなことを理解するまでに教育していくのも非常に大切な事だ。サグラダファミリアじゃないけれど何百年もかかって世代を超えて作っていくようなものだろう。
一方で、ある種の宗教では教義や教祖が絶対的権威で変更不可能だ。しかし、それに従うのは楽で心地よいモノなのだろう。権力によって脅されたり強制されたりしなくても人が本来の性向として、権威を求めているということもある。以前「良心と洗脳」ということでアイヒマン裁判のことを書いたが、全てではないが殆どの人は盲目的に「権威」(科学も民主主義もその本質を問うことなく固定化すればただの権威になる)に従いやすい。(権威と権力とは違うものだが、これについてはなだいなだ氏のわかりやすい著作があるということだ。)
一方で、ある種の宗教では教義や教祖が絶対的権威で変更不可能だ。しかし、それに従うのは楽で心地よいモノなのだろう。権力によって脅されたり強制されたりしなくても人が本来の性向として、権威を求めているということもある。以前「良心と洗脳」ということでアイヒマン裁判のことを書いたが、全てではないが殆どの人は盲目的に「権威」(科学も民主主義もその本質を問うことなく固定化すればただの権威になる)に従いやすい。(権威と権力とは違うものだが、これについてはなだいなだ氏のわかりやすい著作があるということだ。)
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