最近、というか、昨年くらいから、スーパーで中高年のおじさんが買い物している姿をよく見かける。しかし、その姿、立ち居振る舞いがなんとも・・小学生以下である。
最近、というか、昨年くらいから、スーパーで中高年のおじさんが買い物している姿をよく見かける。しかし、その姿、立ち居振る舞いがなんとも・・小学生以下である。
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ある時から政治家が使い始めたあいまい言葉、「・・のかな」が次第に普及して、町のインタービューにでも通行人が日常的な事柄について意見を求められても、使うようになってきた。
世も末である。この言葉は、若い女の子が、「私ってぇ○○じゃないですかぁ」というのと同じだ。
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ベルグソンの言葉
「身振りを慎み、むだな言葉を惜しみ、滑らかに観念を表現し、言い張ることは無く、自分の周りに来て停っている翼のある思想をあまりにも騒々しい音で驚かすことを恐れているかのように低い声で話す彼は、自分の話を遠くの人にも聴いてもらうためには、ただ大変純粋な音を出しさえすれば良いのであって、そんなに声を張り上げる必要はないと考えていたようである。しかしこれほど自然に、これほど静かに、これほど頑固に、他人の権威に反抗した精神はなかったのである」
(白水社1965年刊ベルグソン全集第7巻所収「ラヴェッソンの生涯と業績」より)
そういうことを考えていた時代もあった・・が
今更そんなもの考える歳ではなくなった と
よその人のBLOGにそういうタイトルがあるのを見て、
今、気がついた
お店で若い女店員が「○○してもらっても良いですか?」という言葉を使うことが珍しくない。どうにも感じ悪いと思っていたら、今の人は結構こういう言い方を普通にしているらしい。
今の大学生の事は知らないが、3,40年前学生運動盛んな頃の大学は、概してまじめな学生が多かった。まじめとは、学生の本分である、探求心、勉学心に燃えていると言うほどの意味である。私は付属高校から大学に進学したので受験勉強をしなかった。高校の時は自由に遊んでいたので(具体的には、ギターを弾き本を読む事だけに熱中していた)、大学に入ってからは遊ぶ気などさらさら無く、何かを学ぶ事に喜びを感じていた。
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これも30年以上前のアメリカの心理学の本で「服従の心理学」というのがある。これは、元ナチスのユダヤ人虐殺の責任者・アイヒマンが、南米で捕まって、イスラエルで裁判に掛けられた当時話題になった「アイヒマン裁判」のあと、行われた実験である。
上層部の命令に従っただけだと言う被告に対し、人間としての良心を問うた裁判であった。しかし、本当に、誰でもアイヒマンの立場にあったとして、良心に従って命令を拒否できるのか、と言う事が問題になった。
くそ忙しいこの時期に考える事ではないが、靖国参拝をめぐっての世論調査の結果などを見ていると、近隣諸国からやいのやいの言われると、それが面白くないから参拝賛成と言う風に傾いているような印象を受ける。
これでは、4月におきた中国での反日デモで、日本の商店などに投石したり、日本大使館に投石したりする狼藉ものと変わらない愛国心の発露と言うべきではないだろうか。つまり、それと同じ低レベルであるということ。
リンク: Yahoo!ニュース <靖国問題>追悼施設 自民党内で反発相次ぐ
まぁ、自民党はそうでしょうね。でも「国民は靖国神社が追悼の施設だと思っているので・・」と言う、こういう言い方をよく政治家がするけど、この国民て誰のこと?
ところで、私はセロ弾きのゴーシュの英語表記をローマ字で GOSHU としている。おそらく宮沢賢治はフランス語の辞書も持っていたろうから、フランス語のgauche(だったかな?)からとったに違いない。フランス語のゴーシュと言う意味は、「へた、まがい物、インチキ」などという意味と「左側、心臓のある側」などと言う意味がある。都合良く解釈すれば、下手だが心のあるという意味から、田舎のへたっぴセロ弾きの名前として命名したのだろう。
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